どうせ明日も好きなんだ

NEWSと二宮くんが主食。楽しくいこう、きみたちと。

『WORLDISTA』で描かれた、この世界との向き合い方。

(※かなり前の下書きを加筆修正しています)

 

 

「俺は人形なんかじゃない」──その言葉を初めて目にした時、私は確かに絶望した。今年2月に発売されたNEWSのアルバム『WORLDISTA』に収録された、手越くんのソロ曲の歌詞だ。作曲は手越くん本人で、作詞は別の方にお願いしたけれど、その部分は自分自身の言葉だという趣旨のことを雑誌で語っていた。

本当は『DoLLs』という楽曲のタイトルが発表されてからずっと、祈るように縋るように、アイドルの苦悩を叫ぶような楽曲でなければいいと願っていたような気がする。

こんな発言は許されないかもしれないけれど、私は前回のアルバムに収録された増田さんのソロ曲『Thunder』を初めて聴いた時、これが自担のソロ曲でなくて良かった、と安堵したのだ。

自担じゃない。だから息が止まるほど苦しくなるようなこともなく、真正面から"アイドル"というものと向き合い、戦い、何もないステージの真ん中でがむしゃらに叫ぶ増田さんのことを、ただひたすら格好いいと思って見ていられた。

でも今回は違う。紛れもなく、手越祐也は私の最愛のアイドルだ。その最愛のアイドルが「俺は人形なんかじゃない」と叫んでいる。その”現実”がたまらなく恐ろしかった。

タイミングも良くなかったと思う。だけど、彼を縛り付け自由に動けない人形にしてしまったのは、私自身のこの感情のせいに他ならないんじゃないか。雨を吹き飛ばした昨年の味の素スタジアムで、「この感情を向けることは罪じゃない」と再認識したはずだったのに、またそんな不安に負けそうになったこと、今までもらってきたたくさんの愛をまるで疑うような気持ちに陥ってしまったこと、それが図らずも自担の発言がきっかけであったことがとても悲しかった。

 

けれど、アルバムが発売されて恐る恐る再生した『DoLLs』は、少なくとも私(たち)や今までの日々に対して苦悩を叫ぶような歌ではなくて。

むしろこれは、何も知らない世間の「操り人形」にはならないと糸を断ち切ることで、自分を愛して(くれて)いる人や、夢や、自分の信じるものを貫き通して守ろうとしている歌なんだ、と感じた。

コンサートでは、鎖に縛られその麗しい顔を自らの手で汚し、最後には赤い涙を流す手越祐也の姿がそこにあったけれど。でも、ともすれば「操り人形」になってしまうことに間違いなくもがきあがきながらも、慈しみ可愛がられている、またその役割を演じているという意味での「Doll」であることは受け入れている、ということのように見えた。

「世は舞台 人は皆役者」──この世界に何十億といるDoLLs、みんな何かの役割を持っており、その中で自分が持つ役割はみんなを愛し愛される「アイドル」なんだ、と。その上で、操り人形になってはいけない、自分の意思で動き信念を守り抜いて生きていかなければならない。そしてそれを、他のDoll(私たち)にも向けて歌ってくれているんだ、と思った。

”王子様”である手越くんが歌うには、あまりにも現実的で、苦しく、激しく、泥くさい歌だと思う。それでもこの世界で生きて見せるんだと誇り高く歌い上げる姿は誰よりも強く、美しかった。

真っ直ぐでどこまでも鋭く、ぶれない。これが手越くんの世界への向き合い方なんだ。

 

手越くんのソロに限らず『WORLDISTA』収録のソロ曲は、ファンタジックで世界観の壮大な本編とは大きく異なり、「自分の意思で道を切り開き、生き抜いていけ」という、まるで一切逸らすことなく現実と目を合わせるような楽曲となっている。

世界には、きみ以外には誰も歩むことの出来ない唯一の道がある。

その道はどこに続いていくのか、と問うてはならない。ひたすらに進め。

ニーチェ

四畳半の畳の上で毎夜葛藤しながら、アイギアを手に取り、そこから理想を思い描いた世界が、WORLDISTAだ。だが、そこはあくまでも仮想空間。ユーザーの無限の想像を糧に夢を見せることは可能だけれど、私達はこの苦しくも美しい現実世界でもがいてあがいて、生きていかなければならない。

それぞれの色で「現実世界」との向き合い方を描くことで、NEWSはそんなメッセージを発信したのではないだろうか。

 

もうこれ以上はない、と思ってもなお現実には別れや試練が襲いかかる。どうして、という思いは消えず、時折こうして心に影を差す。でも、別の世界線なんて存在しない。していたとしても、私という人間も、愛する人も、きっと”ここ”にしか存在し得ない。

ならば生きていこう。苦しみ、向き合い、もがいていこう。この世界で。